卒業生は今~鹿児島県垂水市で活躍するアーティスト(ぺタルアート)~

2019年11月9日 ニュース

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皆さんは「ペタルアート」をご存知ですか?

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鹿児島県垂水市に来た。桜島が一望できる海潟(かいがた)漁港(映画 ホタルの舞台となった場所)近く、この素敵な自宅兼アトリエにひとりのクリエイターがいる。
ミヤギタケオさん75歳(日本デザイナー学院東京校卒)一般的には高齢者と言われるお歳であるが、それを感じさせないバイタリティ。穏やかな口調。優しさが溢れるペタルアート主宰のアーティストだ。
ペタルアートはミヤギさんが名付けた。(ペタル=花びら)を使って表現をするミヤギさんが材料の作り方から表現方法まで独自に生み出したオリジナルのアート技法だ。

現在は、アーティストとして毎年のように個展を開催し、その作品たちは企業のカレンダーや本の表紙にも使用されている。その傍ら鹿児島市内2つの教室も持ち、ぺタルアートの魅力を伝えている。

▲ミヤギさんのご自宅(アトリエ)から歩いていける距離に海潟漁港がある。

ミヤギさんは鹿児島県垂水市で生まれ。垂水高校を卒業後、地元の企業に就職をした。その後、転職をし鹿児島市内にある百貨店の総務事務として働きはじめる。

「あなたに何ができるか?」と問われたら、自信を持って答えられるものがあるだろうか?とミヤギさんは自問自答する日々だった

32歳の頃、以前から心の中にあったクリエイティブな仕事がしたいという想いを持って、日本デザイナー学院東京校のグラフィックデザイン科に1975年入学した。

いくつもの専門学校の資料を取り寄せた時、

「入学はできるかもしれないが、卒業はむずかしいです。」そう書いてあったパンフレットを見て、自分がデザインを学ぶのであれば「ここしかない」と日本デザイナー学院への入学を決断した。

当時ミヤギさんには2歳のお子さんがいた。32歳で学生になること、家族を鹿児島に残して上京すること、当然ながら家族や親類や同僚からの反対もあった。

それでもミヤギさんは「自分の人生に後悔をしたくない。」そう生きていくことを考えていた。

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そして、単身鹿児島空港から東京へ飛び立った。

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専門学校に通う日々。

パンフレットの文字通り忙しく大変な日々が続いた。膨大な量の課題が毎日のように出された。ミヤギさんは、その課題1つ1つ全力で取り組んだ。学校帰りにアルバイトをし、学費も生活費も全てをそれで賄った。寝る時間を惜しむように必死に学生時代を過ごした。

日本デザイナー学院に入学して、すぐに行う基礎科目の授業で「イメージ表現」がある。(それに近い授業が今でもある)当時この授業は、故 串戸泰二郎先生が担当されていた。「イメージ表現」は、さまざまな素材を使ってイメージを膨らませ、発想を鍛えるデザインの基礎授業だ。

串戸先生が持ってきた音楽を30分聴いた後、「このメロディーからイメージできるビジュアルをつくり、一本のコピーを走らせてポスターを制作しよう」などの授業が実施された。ミヤギさん自身、この「イメージ表現」の授業が一番重たい授業だったと学生時代を振り返る。でもこれがクリアできなければ、将来のクリエイターはないと感じた。

ある日、串戸先生から「次回の授業は花を使ってイメージを表現する」と言われた。課題をもらったミヤギさんは、庭に生えてた、つるバラやアジサイ、マーガレットを摘んできた。マーガレットの花びらを一片一片ちぎりはじめながら花びらをよく観察すると、つるバラの赤紫の色は鳩の羽色に似ているなぁと感じ、マーガレットの花びらは鳥の羽根に形状が似ている事に気付いた。この花びらを使って「飛んでいる鳩」を描いたらきっと面白いだろうと夢中になって作品をつくった。

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ミヤギさんは、この時から花びらの美しさに魅了された。

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その作品は、同級生や講師の先生方から高評価だった。一つの作品が褒められた事が嬉しかったことは今でも鮮明に記憶している。

「いつか、花びらはアートになるかもしれない。」それが後のぺタルアートに繋がっていく。

▲この作品は学生時代の作品ではないが、こうした鳥の作品を学生時代に制作した。

卒業後は家族たちの待つ鹿児島に帰省をしようと考えた。以前勤めていた鹿児島の百貨店に帰省することを告げると、今度は事務ではなく宣伝部で帰って来いと言っていただいた。

ミヤギさんは三越鹿児島店の宣伝部で働く事になる。

その頃から花びらが手に入ると

摘んできては、花びらを乾燥させるためにマンガ雑誌や電話帳にストックをはじめた。時間の経過とともに花びらたちが、どのように変化・変色をしていくか、自分自身の目で1年、2年、3年と月日を重ね、その変化を観察した。

8年経過した時に、3年経った花びらと比較すると花びらの変色はなく、しっかりと色が定着していることが確認できた。

花びらのストックをはじめて10年後。ようやくミヤギさんの作品作りが始まった。

▲平成3年の電話帳。作品をつくる際には同じ年の「花びら」で一点の作品を仕上げるようにしている。

マンガ雑誌や就職情報誌、電話帳の中にティッシュペーパーで挟まれた一つ一つの花びらたちと、何年後かに再会する瞬間は、まるで玉手箱をあけるようなワクワク感があるという。10年の歳月を経て見える花びらはカタチ・色に独特の味がある。

ピンセットで取り出し、木工用ボンドで和紙やミューズコットンなどの台紙に貼り込んでいく。一枚の作品で50~100種類の花びらを使用するという。

ご自宅の目の前は桜島というロケーション。ぺタルアートと桜島の相性が良いのか、桜島の作品はよく売れるそう。「桜島は、目を閉じていても描けますよ」とミヤギさんは笑う。

桜島をとモチーフを先に決めるケースもあれば、花びらからうけるインスピレーションから抽象的なものを表現する事もある。今は花びらからインスピレーションを受けて表現することの作品が多くなったとのこと。

「花びらの面白さに助けられています。」と語るミヤギさんの言葉から「花びらへの感謝」や「自然へのリスペクト」をしているように感じる。

定年を前に早期退職をした。定年まで勤めてアートを趣味でやっていくと周りに感じられるのは嫌だった。ぺタルアートで、アーティストして本気で活動していく覚悟を決めるために53歳で勤めてきた百貨店を退職した。

 

鹿児島は桜島とともにあると言われる。
昨年一年間だけでも479回噴火があった。自然の力を否が応でも感じずにはいられない。

桜島の機嫌次第で、生活が大きく変わるこの場所だからこその表現がある。この地で自然をリスペクトし、自然の前では人はちっぽけな存在でしかないと感じる。

ミヤギさんのアトリエの倉庫には、昭和60年(1985年)からストックした2500冊もの雑誌がある。雑誌の中にある「花びら」たちは、ミヤギさんの手によって作品となる日が来るのを待っている。

またミヤギさんも「花びら」たちの美しさを最大限に引き出せるように、今日もアトリエで一人創作を続けている。

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最後にミヤギさんからアーティストやデザイナーを目指す皆さんへメッセージ

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自分が本当に向き合いたいと思うモノっていうのは、自分が持てる限りの一生懸命さを全部ぶつけることによって、自分も満足できるし、

向かい合ったクリエイティブな仕事や作品もそれを受けて満足のできるものになっていくと思います。

私は決断が遅れて大きな回り道もしたけれど、時として自分を見つめ直し、学びたいものがあれば、飛び出す勇気も必要では。

人生100年の現在、その内の2年間か3年間。これからの2年、3年間を思うと長いようだけど、過ぎてしまえばアッという間。

想いがあるならば、本気でぶつかって自分をワンランク上に押し上げて下さい。

私は日本デザイナー学院で学び、寝る時間を惜しんで制作提出した課題作品を誉められ、その気になって生まれたオリジナルの「ぺタルアート」をこれからもまだ感性を磨きながら大切に発表して参ります。

いつかお目にかかれる時があると良いですね。

日々、「見たり、聞いたり、感じたり」する中で、吸収する柔軟な感性は、今でもあのニチデ時代と一緒、かな?笑

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